一人の自転車乗りから始まった歴史

パールイズミは一人の自転車乗りから始まった。20kg以上の衣類を顧客に届けるために。その名は清水釿治(きんじ)。 1911年、のちにパールイズミの創業者となる清水釿治は長野県の飯田市で生まれ育った。17歳で上京し、両国で肌着類の繊維問屋を営む兄たちの手伝いをはじめ、1950年にパールイズミの前身となる個人商店「清水釿治商店」を創業した。 当時は、荷台付きの自転車に20kg以上の荷物を載せて毎日30km以上の道のりを配達していた。きっとこのころから自転車乗りとしての血筋も育まれていたのだろう。

運命のジャージとの出会い

そんな血筋を引き継いだ釿治の四男にあたる、現パールイズミ会長の清水弘裕は、中学3年生の頃に兄が使っていた自転車を譲り受け、自転車を始めた。 両国から箱根湯本まで往復180kmもある日帰りサイクリングに夢中になり、その頃は学校の体操着に軍手をつけて走っていた。 その後も、自転車への情熱はさらに高まり、高校3年生の時には日本代表に選出されるまでの力をつけた。そして代表選手として参加したアジア選手権の遠征時には、パールイズミの原点となる運命の出会いが待っていた。 パールイズミ70年の歩み #01 「パールイズミのはじまり」 当時の代表監督が遠征中に、抽選で当たった選手に自身が持っていたイタリア製のジャージをプレゼントすると言い出した。 そこで見事イタリア製のジャージを引き当てたのが弘裕だった。 その当時のイタリア製ジャージの着心地や見た目の美しさや光沢は、これまで弘裕が手にしてきたサイクルウェアとは別次元のものだった。 大会後すぐに、父の釿治に同じものをつくってほしいと頼んだところ、何件もの工場を当たり、イタリア製のような光沢のある生地を見つけサイクルウェアを作った。 このイタリア製ジャージとの出会いから、サイクルウェアブランドとしての本格的な歩みがはじまった。

パールイズミに込められた想い

肌着問屋からサイクルウェアブランドへとシフトし、1963年には「パールイズミ」を商標登録。 パールイズミは、英語の真珠「パール」と、日本語の泉「イズミ」の組み合わせで出来ている。 そこには「光り輝く清水(きよみず)が湧き出る泉のように、新鮮で素晴らしい真珠のような製品を創造し続けたい」という想いが込められている。創業者である釿治が生まれ育った長野飯田市で、清く湧き出る泉を生活用水として使用していたことから生まれたネーミングだ。 このものづくりに対する想いは今でもパールイズミが大切にしている想いである。 イタリア製ジャージとの出会いをきっかけに、パールイズミは当時ウールや綿のウェアが主流で機能面などで課題も多くあったサイクルウェアに、さまざまな改良を重ね、国内のサイクリングクラブや、大学自転車部のユニフォームとして採用されるなど、着実にサイクルウェアブランドとしての道を切り拓いていった。 パールイズミ70年の歩み #02 に続く。